長い冬休み、ようやく終わりましたね。今回は発熱したり、旅行へ行ったりとバラエティ豊かな長期休暇でした。発熱間は育児は夫がやってくれたこともあり、今回の冬休みは少し楽させてもらいました。
さて、本日のコラム。
ちょっと最近思うことがあったので、文字にしてみたいと思います。
私はおそらく発達障害者なので、Xでは発達障害についての情報を入れ込んでいたのですが、ちょうど秋頃でしょうか…発達障害者が定型に擬態していることについてのポストを頻回に見かけました。
結局自分には合わない方法に無理くり合わせて社会生活を送っているため、ひどく疲弊して心身に負担がかかってしまうというものです。ですからまずは自分が発達障害だと認め、自己理解をしてやり方を工夫したりしましょう。周囲もその人の苦手をサポートしたり、多数派のやり方に寄せずに発達障害者への理解を深めましょうというものでした。
実際にはそれが理想だと思います。
発達障害ばっかりが定型への理解を深めていて、割りに合わないっていうのが本音ですよ。こっちばっかりが損しているわけです。そういうのを知らずに定型たちは自分たちのやり方に合わせてもらっていることも知らずに、できない奴を罵るのです。サスティナブルっていう時代が来たんだから、今度はそっちが頑張る番だよと思っています。
しかしね、発達障害児を抱える母が感じるものとして、やっぱり守ってもらえるのは中学生まで。手帳をもらえないゾーンの人はその先は自分で考えて環境を選び、自分で考えて工夫していくしかないわけです。
私は自分のことを人とは考え方が大幅に違う人間だと認識しています。社会っていうのはある程度「型」がないと成り立たないものですから、自分が障害者側の枠に入るのは致し方ないのかとは思います。
ただメンタルもそれほど病んでない今、病院に行く理由も見つからないし、福祉を利用したい状況でもない為、無診断ではいますが、発達障害のアスペルガー症候群としての自覚はかなりあります。
今でこそ発達障害というものが周知されてきてはいますが、知っているのと理解しているのとでは全く違いますよね。マイノリティ側がもう少し生きやすくなるには、今の子供が大人になって子育てする時代になってようやく薄っすらとやってくるのだと思います。
現時点ではまだまだサバイバル。
だからこそ擬態もやっぱり大切だなと思ったりします。「私のことを理解してよ」って言って理解してもらえる場所が少なすぎます。だからこそ自分は人とは違うことを理解した上での擬態って、自分の身を守ると思っているんです。
- どこまで苦手なことを合わせいっても大丈夫か。
- 自分はどのラインで自分はくたばってしまうのか。
- 相手は自分をどこまで受け入れられるのか。
- 受け入れてもらえない部分はどう工夫していくのか。
- どんな道具が利用できるのか。
- この場所を去るのか。
- 次はどういう場所を選ぶのか。
そういう見極めを、手帳をもらえないゾーンの人間はする必要が出てくるのだと思います。
肉体がぶっ倒れないと周囲って変わってくれないんですよ。
ぶっ倒れないと無理していたことを分かってもらえない。
ぶっ倒れないと援助が受けられない。
それは個人も社会も同じです。
なんなら一度ぶっ倒れないと、自分のことすらもよく分かりません。
でも何度もぶっ倒れたくないじゃないですか。一度ぶっ倒れた人ほど二度とぶっ倒れたくないと思うじゃないですか。そうするとやっぱりコツコツと擬態する部分は擬態して、素でいる部分は素でいて、薬に頼れる部分は頼り、自分で見極めて調整してやっていくしかないわけです。
明らかに一目で違いを感じる障害者は助けてもらえますが、一目で分からない障害者は辛い思いをすることが多いのが事実です。42才になって思うことは、自分の身はやっぱり自分で守るしかないってことです。
あえてやれば、それも技。社会でやっていくと決めたのならば、擬態しすぎて疲れてしまう部分をコツコツ改善していくだけなのだと思います。
正直どんな選択をしたっていいじゃないって思います。東出さんのように山にこもって半自給自足も私は素晴らしいと思ってます。結婚して子供がいなかったら、私もそうしたかった願望はあります。自分を削ってまでこの現代社会を維持する志なんてないですもの。
本当にこの社会が賞賛されるものなのかも、いまいちよく分かりません。この生活様式は安全安心をくれるけど、私たちにデメリットももたらしていることも感じています。だから社会に関わる割合を自分で決めてもいいはず。100%社会生活の中にいなくてもいい。70%にしても50%にしてもいいんですよ。
でも0%にすることは不可能ですから、そこはやっぱり社会の性質を見通して上手くやっていく覚悟をもっておく必要があると思います。じゃないと振り回されてぶっ倒れてしまいますから。
あんまりまとめられなかったけど、擬態することに対しての思いの丈を書いてみました。
なーんだろな、書いてスッキリするものでもなかったな。
でも自分がどんなことを思っているかを書き出すことって、常々必要だと思っています。正解なんて分かりませんよ。でも自分の気持ちは大切にしたいなって思います。
擬態か、なんだろうね、擬態って。ヘンテコな言葉だよまったく。
コメントを残す